ウルグアイ情報

2018/3/1

社会

社会情勢
 ウルグアイは世界の食糧庫として繁栄した20世紀始めから各種社会保障制度が整備されてきたこと,中間所得層の幅が比較的広い(国民の約6割)こと等から,中南米の中では国民の所得格差が最も小さい国の一つであり,社会的・政治的に安定している。1973年~85年の軍事政権以降,確固とした民主主義が根付いており,民主主義指数,腐敗認識指数,法の支配指数などの国際ランキングでは中南米1位の座を占めている。地域的また世界的問題である麻薬関連の新たな取り組みとして,政府は2013年から麻薬を規制・管理した上で生産,流通,販売を行う政策を採用しており,2017年からは薬局における麻薬販売も開始されている(購入できるのは市民権を持ち事前登録した者のみ。観光客は不可)。
 
労働
 ウルグアイにおける労働組合の全国組織はウルグアイ労働総同盟(PIT-CNT)のみであるが,強い組織力を背景に度々ゼネストやデモ行進が行われ,教育機関,公共交通機関,医療機関等に影響が出る。労働運動が社会において重要な役割を担っており,PIT-CNTは与党FAの主要支持基盤でもある。また,労働協約が期限切れを迎えるたびに政・労・使による三者賃金審議会が招集され賃金交渉が行われる。ウルグアイでは労働者に対する保護が厚く,労働訴訟が頻発し,労働裁判所が労働者に有利な判決を下すことが多いとされている。
 当面の課題は,失業率の改善,若者や優秀な人材の海外流出(アルゼンチンや欧米など),団体交渉権など労使関係を規定する法律の確立と労働法の柔軟化である。
 
教育
 幼稚園2年,小学校6年,中学校3年,高校3年が義務教育。公教育は,無宗教,無料(登録料,授業料)を原則としている。
 初等教育就学率約100%,中等教育就学率約89%(出所:2015年教育文化省)となっている。私立の小学校・中学校に通う生徒の割合は首都モンテビデオでは81%,地方都市では小学校39%,中学校10%となっている。なお,モンテビデオには約276の公立小学校と214の私立小学校がある。10年前から開始されたセイバル計画(全国の公立小学校生徒へのノート型パソコン無償配布)によるITリテラシーも高い。一方で,初等教育は充実しているものの,中等教育における留年及び退学率の高さが問題視されており,政府は教育改革を喫緊の優先課題と位置づけている。
 大学は,国立では共和国大学の他に科学技術大学,私立ではカトリック大学,ORT大学,モンテビデオ大学及び企業大学があり,計6大学。なお,公立大学の授業料も無料化されている。
 
宗教
 憲法により信仰の自由が保障されており,1919年以来政教分離されている。ラテンバロメーターによれば(2014年4月17日付エル・パイス紙掲載),2013年の時点におけるカトリック41%,無神・不可知論者38%,他13%,福音派キリスト教徒8%となっており,ラテン・アメリカで最もカトリックの割合が低い。さらに,他の中南米諸国と異なる点として,政教分離の一環として,聖週間は公式には「観光週間」,クリスマスは「家族の日」と呼ばれている他,カトリックの聖人の名前を冠した祝日が無く,宗教的色彩は薄い。
 
 https://www.uy.emb-japan.go.jp/fotos%20Uruguay/pocitos.jpg

 
人口・民族
 人口約343万である。多くはスペイン,イタリア系の移住者ないしはその子孫であり,他にドイツ,ユダヤ、英国,オランダ,東欧系等もいるが,その数は前二者に比べ遥かに少ない。もともとこの土地に住んでいた原住民(主にチャルア族)はスペインによる植民地化により絶滅し,原住民と白人との混血(メスティーソ)も皆無に近い。18世紀に奴隷として流入した黒人の子孫並びに黒人と白人との混血(ムラート)もいるが人口の約1割以下にすぎない。
 
●国民性
 日本の約半分の広さの平坦且つ肥沃な国土に対し,人口はわずか328万人にすぎない(1平方キロメ-トル当り18人)。このためかウルグアイ国民は一般的にあくせくすることがなく,鷹揚な性格の持ち主である。大半がスペイン,イタリアを祖先とするラテン系民族であり,礼儀正しく,社交的である。また,生活を楽しむことを人生の主とする考えが一般的であり,特に12月から3月の時期は長期の夏季休暇を楽しむ習慣が定着している。一方,19世紀後半に大量に流入した欧州等からの移住者がもたらした様々な文化・伝統が混在しており,異文化に対する理解・寛容度が高い。
 
●環境
 ウルグアイ政府の観光促進のキャッチフレーズが「Uruguay Natural(自然豊かなウルグアイ)」であるように,ウルグアイでは海岸や沼地などの自然が尊重されている。電力のほぼ100%を再生可能エネルギー(水力,風力,バイオマス等)によって賄っており,余剰電力を隣国に供給している。近年,特に大西洋、ラ・プラタ川からの強風を活かし,風力発電を積極的に推進する。
 ただし,環境問題が散見されるのも事実であり,具体的事例としては,皮革工場や食肉処理工場の廃液等によるラ・プラタ川水質汚染などがある。
 
●衛生・医療事情
 衛生事情は比較的良好だが,短期滞在者は特に生水や氷を避けた方が無難である。風土病は特に見られないが,破傷風やA型肝炎の予防注射はしておいたほうがよい。
 医療施設では英語は通じないことが多い。また,交通事故などの際には原則的に公営救急車により公立病院に収容される。民間の救急車を利用するには事前の救急サービスとの定期契約が必要なため,急な疾病や怪我の場合には自家用車やタクシーを利用して私立病院の救急室を受診し診察治療を受けることが多い。医薬品の購入に際しては現地医師の処方箋(医師名と医師免許番号記載)が必要であり,医療機関にて診察を受け処方箋を発行してもらう必要がある。薬局で一般的な薬は購入できるが持病の薬は予め本邦から持参する方がよい。

歴史

●ウルグアイ「発見」~独立(1516-1825)
 1516年,スペイン人のソリスがウルグアイを発見したとされる。当時,スペイン王国は,金銀等の鉱山が存在しないウルグアイ周辺一帯は無価値であるとし,発見から数世紀の間は本格的な入植は行われなかった。また,当時ウルグアイに居住していたチャルア,チャナ,ヤロ,グエンカ,グアラニー等の先住民による抵抗も入植が遅れた理由の一つであった。1860年,ブラジルを植民地支配していたポルトガル人によりウルグアイ最初の都市コロニア・デ・サクラメントが建設された(世界遺産に指定されており,首都モンテビデオから車で数時間の距離に位置する)。同市は,ラ・プラタ川を挟んだアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスの対岸に位置しており,ブエノス・アイレスに植民地を築いていたスペイン人がコロニア・デ・サクラメントの領有権を主張,ポルトガルから支配権を奪うに至った。その後もポルトガルとスペインの間でコロニア・デ・サクラメントを含むウルグアイ一帯の領土を巡って領有権争いが続いた。
 1724年,スペイン人によりウルグアイの首都となるモンテビデオが建設された。モンテビデオ湾の近くには丘があり,スペイン語で山を意味する「モンテ」が地名の由来とされる。モンテビデオには要塞が築かれ,地の利と優れた港によって貿易の要となる重要都市へと進化した。また,肥沃な牧草地と良好な自然条件にも恵まれ,農牧・畜産が主要産業へと発展した。1776年,当時,まだバンダ・オリエンタル(東方部の意)と呼ばれていたウルグアイは,ラ・プラタ副王領に編入され,翌1777年,ポルトガルはスペインによる同領土の支配を認めるに至った。
 19世紀に入り,ヨーロッパでナポレオン戦争が勃発すると,アメリカ大陸におけるスペインの支配が弱体化した。1806年,勢力の伸長を試みたイギリスがモンテビデオ(及びブエノスアイレス)を一時占領する事態も発生した。ナポレオンのスペイン侵攻を機にクリオ-ジョと呼ばれるアメリカ大陸で生まれ育ったスペイン人を中心に,ラテンアメリカ各地で独立運動が始まり,アルティガス将軍率いるウルグアイも,1811年にアルゼンチンの支援を得てスペインに対する独立運動を開始した。これに対してスペインの駐屯軍がブラジルにいたポルトガル軍に援助を求め,ウルグアイはポルトガル軍に制圧され,1820年アルティガスはパラグアイに亡命した。翌1821年にはウルグアイはブラジル領に組み入れられた。しかし,1825年,アルゼンチンに亡命していた33名のウルグアイ人が,ラバジェハ将軍を先頭にモンテビデオを奪回,ついに同年8月25日独立を宣言するに至った。


アルティガス将軍像

●ウルグアイ独立~民生移管(1825年~)
 独立後,1830年に憲法が制定され,正式に国名がウルグアイ東方共和国となった。共和国憲法に基づくウルグアイの初代大統領にコロラド党のリベラが就任した。次期大統領に国民党のオリベが選出され,その後,コロラド党と国民党は,それぞれブラジルとアルゼンチンの支援のもと対立を続けた(両党は,その後1世紀以上にわたってウルグアイの伝統二政党として近代に至るまで政界における中心的な役割を果たす)。1836年に起こったカルピンテリーアの戦いで,リベラ派が赤色を,オリベ派が白色を使用したことから,現在もコロラド党を指して赤、国民党を白と呼ぶ習慣が残っている。1839年,ゲラ・グランデ(大戦争の意)と呼ばれる内戦が勃発し,フランス,英国,アルゼンチン等の列強国が参戦,10年以上続いた同戦争は1851年,ブラジルの支援を受けたリベラ派が勝利し終戦を迎えた。しかし,ウルグアイはブラジルに多大な債務を負ったのみならず,領土の一部を譲渡するなど不利な平和条約を結ぶことになった。その後もコロラド党と国民党の抗争が続き政情不安に陥っていたところ,1876年,ラトーレ将軍による軍事政権が誕生した。1890年に民政移行するまでの期間,土地登録制度の導入,無料の義務教育普及など国家の近代化に向けた改革が行われた。
 1903年に至り,大統領に就任したバジェ・イ・オルドニェスはウルグアイに政治的安定をもたらし,2期(1903~7年,1911~15年)にわたる政権の間に諸改革を行い,社会福祉国家ウルグアイの名を高め現行制度の基礎を作った。 例えば,8時間労働制,児童労働の禁止,産休制度の導入,離婚の合法化,政教分離など世界的にも先駆的な改革を行った。また,共和国銀行や鉄道公社等の設立により国営化を推し進めた。1918年,憲法改正により政治制度改革が行われ,秘密投票や比例代表制などが導入され民主主義の基盤が整えられていった。1927年には南米で初めて女性に投票権が与えられた。
 ウルグアイは第一次産品(牛肉および羊毛)輸出国として経済発展を続け,更に2度にわたる世界大戦を通じ食糧供給国として繁栄したが,1950年代半ばから経済が停滞し始めた。1960年代後半から1970年代初めにかけてトゥパマロスによる都市部を中心としたゲリラ活動が活発化し,不安定な政情が続いた。1971年,収監されていた100人以上のトゥパマロスのメンバーが地下道から脱獄する事件が起こった。ちなみに,ムヒカ前大統領も同ゲリラの中心メンバーとして勾留されており,脱獄に成功した一人であった。同年,初めてFA(拡大戦線)党が,左派政党及び伝統二政党の離反者と連立を組み大統領選挙に挑んだ。結果,ボルダベリー(コロラド党)が勝利したものの,1973年6月,軍部が国内治安の悪化を理由に政権を奪取し,以来1985年3月の民政移管までの間,議会の停止,政党活動の停止,労働組合の違法化,言論の統制等の措置が講じられ軍事独裁が続いた。この期間,政治的迫害や不法拘留が日常的に行われ150人以上が行方不明となった。
 1984年には13年ぶりに民主的な選挙が実施され,1985年3月にサンギネッティ(コロラド党)が政権の座に就き,民主主義の回復と定着のための諸改革を実行した。

文化

●芸術
 ウルグアイは,欧州諸国,主としてスペイン,イタリア両国からの移住者及びその子孫により構成されている社会であり,伝統的にヨーロッパ,特に南欧(ラテン系)指向が強く,文化的にもその傾向が顕著である。また,スペインの植民地化により先住民族が絶滅したため,他の中南米諸国にみられるような先住民独特の文化は残っていない。そのようなヨーロッパ的性格に加え,ラ・プラタ川を挟んだ隣国であるアルゼンチンや,国境を接するブラジル南部リオ・グランデ・ド・スール州との文化的共通性も高い。

文学
 文学で第一に挙げられる作家は,19世紀末のヨーロッパロマン主義の影響を受けたソリージャ・デ・サン・マルティン(Juan Zorrilla de San Martín,1855~1931)であり,主な作品にLeyenda Patria,Tabaré等がある。しかし,19世紀末には浪漫派に対抗する近代派がラ米諸国に影響を与え,ウルグアイ文化における近代派の巨人と呼ばれるホセ・エンリケ・ロド(José Enrique Rodó,1872~1917)は,「ラテン・アメリカでロドに優る者はニカラグアのルベン・ダリオ以外にいない」とさえ形容されている。また彼の随筆アリエル(Ariel)は米国の物質文明に対し,ラ米の精神的結束の途を示したアメリカニスモの炬火と見なされ,ラテン・アメリカの知識人に深い影響を与えている(中南米で「アメリカニスモ」といわれる場合,往々にして,北米的要素を除き,むしろそれに対抗するラテン・アメリカ的な色合いの思想を指す場合が多いが,ロドの場合もそうである)。また,カルロス・バス・フェレイラ(Carlos Vaz Ferreira,1873~1958),詩人フリオ・エレラ・レイシッグ(Julio Herreira Reissig,1875~1910),劇作家フロレンシオ・サンチェス(Florencio Sánchez,1875~1910),短編小説家オラシオ・キローガ(Horacio Quiroga,1878~1937)等は,ウルグアイ文学が単なる移植文化の域を脱し,ウルグアイの国民感情と風土に根ざした文芸として発展したことを示すものである。
 現代作家としては,マリオ・ベネデッティ(Mario Benedetti,1920~2009),フアン・カルロス・オネッティ(Juan Carlos Onetti,1909~1994)等が高い評価を得ている。
 

マリオ・ベネデッティ

絵画・彫刻
  絵画ではフアン・マヌエル・ブラネス(Juan Manuel Blanes,1830~1901)がまず挙げられ,彼に次いでペドロ・フィガリ(Pedro Figari,1861~1938),ホアキン・トレス・ガルシア(Joaquín Torres García,1874~1944)等がいる。特にフィガリのウルグアイの田園と農村の生活をテーマとした印象派的な柔らかい色調は高く評価されている。
 彫刻家では,フアン・ソリージャの息子ホセ・ルイス・ソリージャ・デ・サン・マルティン(José Luis Zorrilla de San Martín,1891~1975)がモンテビデオ7月18日通りのガウチョの像で知られており,またオルドニェス公園(通称連合国公園。第二次大戦時の連合国である米英両国の大使公邸があることによる)内の幌馬車の記念碑はホセ・ベリョーニ(José Belloni,1882~1965)の傑作である。
 

ペドロ・フィガリ

音楽・舞踊
 ウルグアイとアルゼンチンのどちらが発祥の地かでしばしば議論になるタンゴだが,ウルグアイでも極めて一般的で,多くの名曲及び作曲家が出ている。有名なラ・クンパルシータはウルグアイ人ヘラルド・マトス・ロドリゲス(Geraldo M. Matos Rodríguez)の作曲で,この国では国歌に次いで度々演奏されている。2009年,ユネスコはタンゴをアルゼンチンとウルグアイの無形文化遺産として認めた。
 ウルグアイにはガウチョ(牧童)によって育まれた,抒情的な歌とギターを主体とした軽快な舞曲が伝わっている。植民地時代にスペインから持ち込まれた舞曲が土着化し形を変えていったものであり,その代表は男女ペアで踊るペリコン(Pericón)である。なお,原野(パンパ)で牛群を率いて自由に放浪していた本来の意味でのガウチョは,19世紀後半ヨーロッパ系移民の流入に伴う牧場経営の発展により消滅しており,今日では,牧畜業の労働者がガウチョと呼ばれている。このため,ガウチョの民俗舞踊はもっぱら初等学校教育等で教えられるのみであり,日常的に踊られていることはない。
 また,奴隷としてこの地に連れてこられたアフロ系住民によって生み出された,打楽器を中心とする音楽カンドンベ及び政治批判等を音楽やコメディを通してユーモラスに表現するムルガは,ウルグアイのカーニバルに欠かせない存在であり,週末の街角ではしばしば,タンボールと呼ばれる太鼓の演奏を練習する人々の姿が見られる。


カンドンベ

●娯楽・スポーツ
 ウルグアイ人は家庭を大事にし、家族そろって健康的に余暇を楽しむ人が多い。
 休日は,家族や友人が集まり,自宅でアサード(牛肉や腸詰めなどの炭火バーベキュー)を楽しむなどして一日を過ごすことが多い。モンテビデオでは,晴天時には,ラ・プラタ川沿いの「ランブラ」と呼ばれる遊歩道を散歩したり,釣りをしたり,夏季には浜辺で日光浴する等してのんびりと過ごす人が多い。なお,このような団欒には「マテ茶」が手放せない(家族や友人同士では回し飲みをする)。夜間の過ごし方としては,若者には夜中の1時頃から始まるボリーチェ(ディスコ)が人気である。
 ウルグアイでは夏季の1~2月に1ヶ月近い長期休暇をとるのが習慣で(学校の夏休みは3ヶ月間),多くの人が,家族と共に避暑を楽しむ。モンテビデオからブラジル国境のチュイに至るラ・プラタ川岸と大西洋岸には大小のビーチがあり,セカンドハウスを持つウルグアイ人も多く,また貸別荘もたくさんある。中でも,プンタ・デル・エステ(Punta del Este)は南米有数の高級リゾート地として有名である。
 スポーツでは,サッカーが最も盛んで,街中には多くのサッカー・コートがあり,年代を問わず人気の国民的スポーツとなっている。ウルグアイはサッカー・ワ-ルドカップの第1回開催国かつ優勝国であり(1930年),その後,1950年のワールドカップで2度目の優勝,またオリンピックにおいても2回優勝した実績を有しており,現在も欧州のリーグで活躍する優秀な選手を輩出している。第1回ワールドカップ開催のために建設されたセンテナリオ競技場は8万人収容で,プロリーグの人気試合や国際試合には,子どもからお年寄りまで多くの観衆が詰めかける。同競技場にはサッカー博物館が併設されており,歴史的なサッカーに関する展示物が鑑賞できる。また,ウルグアイではラグビーも比較的盛んで,街中や郊外での練習風景が見られる。